1. HOME
  2. 元町CSについて
  3. 元町歴史散歩
  4. ペリーを接待した石川家の人たち

CHRONICLE/元町歴史散歩

第1話 ペリーを接待した石川家の人たち大澤 秀人

これから4回にわたって元町の、それも仲通りや代官坂にちなんだ歴史上の出来事を記することにする。第1回は石川家がペリーを自宅で接待したときのことである。

嘉永7年(1854)4月6日(陰暦3月9日)というからいまからちょうど150年前のことである。幕府と日米和親条約を締結したばかりのペリーは、この日、士官下士官13人を引き連れて、「民情視察のため」横浜村に上陸した。幕府の役人の案内で、近郊の野毛浦や北方村などを回ったペリーらは、そのあと横浜村(いまの元町)に戻って石川徳右衛門(第11代)宅を訪問した。のちに横浜惣年寄となる徳右衛門(1804~1889)は、このとき51歳、里正(村長)の職にあった。

玄関で一行を丁重に出迎えた徳右衛門は、庭で自慢の松を見せたあと、二間つづきの広い座敷に招じ入れた。主客のペリーら3人は客間の床の間の前に、通訳と上官ら5人はその東側から北側に、そして下士官ら5人は次の間にと案内された。座敷には、赤い腰掛けが用意されていた。

全員が席についたところで、徳右衛門の妻かつと妹のぶが茶菓を持って入ってきて、「おずおずと、つつましく」挨拶した。二人とも素足で、黒っぽい長衣を着て、腰には幅広の帯を締めていた。「見た目に不格好な衣服をまとった二人は、太ってずんぐりして見えたが、顔の表情は決して乏しくはなかった。それは彼女らの黒く輝く瞳と黒髪のせいだった」とペリーはその第一印象を記している。しかし、その時、ペリーの目に何より強く印象に残ったのは、彼女らの「お歯黒」であった。「二人とも笑みを浮かべてはいるが、ルビーのような唇を開くたびに真黒に染めた歯と腐った歯茎が覗き見えた。それは不気味で、匂いも悪いし、衛生的にも決してよいものではなかった」。とはいいながら、ペリーはこのお歯黒についての正確な認識も持っていた。「歯を黒く染めるのは既婚者の証拠で、自分にはすでに決まった良人があることを示すものである」。そして、このあとつぎのように記している。「果たして(このお歯黒は)二人にとって、幸せな結果をもたらすものであったかといえば決してそうとはいえない。二人の接吻は求婚時代で終りを告げてしまうからである。まして近頃の若い女性の中には、求婚されるとすぐに未来の花婿のことを思って歯を黒くしてしまうものもいる。そうなると未来の花婿は、結婚前にすでに接吻の喜びを奪われてしまうことにもなりかねないのである」。

それはともかく、肝心な石川家の接待はといえば、石川家がこの日用意したのは、お茶と砂糖菓子、それに日本酒と「米粉でつくった温かいワッフルのようなもの」であった。この「ワッフルのようなもの」が何であったか。日本側の資料によると、それは「焼餅」だったらしい。

宴が始まると、女性たちは跪き、かいがいしくお酌をしてまわった。ペリーは、こうした彼女たちの立居振舞を見て「こんなぎこちない姿勢でも別段動きに支障はないらしい。盃が小さいから、始終酒を注がなければならないのだが、二人は銀の徳利を手に活発に動き回った」と記している。そして、その間「つねに丁重に、絶やすことなく笑みを浮かべていた」が、「笑わない方がよかった」とここでも彼女たちのお歯黒のことを暗に記している。

ともかくこうして接待は順調に進み、最後にペリーが立ち上がって酒杯を高々と差し上げ「一家全員の健康を祝して乾杯したい」と申し出ると、そこへ「隣室に控えていた村長の母親(注、きせ)が連れられて入ってきた。この老淑女は、部屋に入ると、一隅に蹲り、最年長者として一家に寄せられた祝福に感謝してお辞儀をした」。

こうしてペリーの石川家訪問は無事終った。ペリーにとってそれは極めて満足のいくものだったようだ。この日の「日記」の最後に、村(元町)全体の印象をつぎのように記している。「この村の住人は役人、商人、労働者の三つの階級があるようだが、みな打ち揃って満足に気楽に暮らしているようであった」。

第2話 >>

大澤秀人プロフィール

元町生れ。早稲田大学文学部英文科卒。文化放送営業・編成部長を経てエフエム東京取締役、エフエム東京音楽出版代表取締役、東京MXテレビ取締役編成報道局長を歴任。現在、河鍋暁斎記念美術館評議員。日本ペンクラブ会員。主な著作「日本民間放送年鑑・ラジオ編」「横浜元町140年史」「栄光学園同窓会50年史」。ほかに「文化放送50年史」、北野武監督「HANABI」の企画参与など。